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2010.01.04

さいきんのワット研究所

ここさいきんの備忘録として。

●映画
『ピリペンコさんの手作り潜水艦』ドイツ、2009年、監督:ヤン・ヒンリック・ドレーフス、レネー・ハルダー
ドキュメンタリー。ウクライナのピリペンコさんが、日本でいう「トランジスタ技術」みたいな雑誌を元に、まったく独学で潜水艦を完成し、黒海での初航海へと挑むまで。ガチャピン色の潜水艦のショボさに、ひたすらハラハラする。アウトサイダーアートという言い方があるけれど、この場合は何といえばいいのだろう。工作ということか。工作は偉大だ。
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『倫敦から来た男』ハンガリー/ドイツ/フランス、2007年、監督:タル・ベーラ
中年の鉄道員が港での殺人事件を目撃する、そして…というサスペンス。ストーリーよりも、硬質なモノクロの緊張感がたまらない。ホスピタリティ溢れない共産主義圏特有のハンガリーの街角の様子が、どこまでもダルな感じ。

●展覧会
『すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している』神奈川県立近代美術館
内藤礼の個展。彼女が好きな人は、どれだけ実物を見に行っているだろう。はじめての私は、とにかく拍子抜けして笑ってしまった。美術館の箱のサイズと、作品の規模のミスマッチ。上部から一本、紐が降りてきている。足元に「精霊」という作品プレートがある。内藤作品を知っているのに、どうしていつもと同じような作品の見方をしたのか反省し、笑い、もう一度作品を新たな目でたどり直す。全部の作品を見た、発見した。円形の作品「恩寵」の一部も展示室から持ち出して、青空に透かして極小のメッセージを繰り返し読んだ。

『木村伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソン 東洋と西洋のまなざし』東京都写真美術館
おじさんがぴょんと跳ねている「サン=ラザール駅裏」の構図の秀逸さがどのように語られているか門外漢なので分からない。また、これが実はトリミングされた写真だったという事実がどれくらい衝撃なのかも分からない。要するに、あんまり考えずに二人の作品を同時に見ることを楽しみたかった。木村の感覚的な構図設定と対照的に、息を詰め決定的瞬間を待つ、アンリ・カルティエ=ブレッソンの周囲の緊張感を空想する。神経質な男だったんだろうな。

『医学と芸術』森美術館
マーク・クイン(Marc Quinn)の「キス」という彫刻がとても良かった。少年は手首から肘にかけてが欠け、左右とも腕がとても短い。少女の左腕は胴体に癒着している。その畸形の二人がキスをしている彫刻。ダ・ヴィンチ先生の昔より、人間の人体をより厳密に、一般化・標準化して捉える競争があった。その反動なのか最近は、どんな人間もが迎えるであろう老いという一点から、「一般化」の内実を豊かにしようという企みが作品化されることも多いようだ。でもさ、老いない人もいるかも知れないし、死なない人間もいるかもしれないじゃん。「フリークスは…ほかの大多数とは違うオリジナリティーを生まれつき持っている。非常に貴重だし美しいものだと思える」(人形作家・清水真理の発言、『yaso 夜想 #モンスター&フリークス』)。
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●本、それも文庫のみ
『戦後日本の大衆文化史』鶴見俊輔、岩波現代文庫
『丸山真男『日本の思想』精読』宮村治雄、岩波現代文庫
『だれのものでもない悲しみ』辻原登、中公文庫
『可能性としての「戦後」』桜井哲夫、平凡社ライブラリー
『光車よ、まわれ!』天沢退二郎、ピュアフル文庫
『東京番外地』森達也、新潮文庫
『肉体の悪魔』ラディゲ、光文社古典新訳文庫
『村のエトランジェ』小沼丹、講談社文芸文庫
『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』桜庭一樹、角川文庫

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Posted at 03:42 | メモ | COM(0) | TB(0) |
2009.12.23

『漫画原論』四方田犬彦、ちくま学芸文庫

 仮に目にみえていることが全てだとしても、それを詳述することは簡単ではない。映画批評の方法論は使えるんだろうけれど、やっぱりマンガはマンガであると論を打ち立て、マンガ学の黎明に力を与えた本書。原論というだけあり、コマについて、風船(吹き出し)について、登場人物の顔について、マンガに必要な要素を手早く解説していく。
 もともとPR誌『ちくま』に連載されただけあり、引用を厭わない、というかサービス精神を感じる。過去数十年の日本マンガ界の重鎮(手塚治、杉浦茂)、アイドル(谷岡ヤスジ、つげ義春)、異端者(根本敬あたり)が揃い踏み。当時の脱出口である「新しい世代の漫画家」として、スージー甘金や丸尾末広の名が記されているところが、なんともいえぬ口当たりである。
 1994年に親本が出版されているが、論の基本的な部分は揺らいでいない。とはいえ、現実のマンガのその後はどうだったか。アニメやゲームなど、デジタルメディアとの干渉を経ても、独自の堡塁を守っているようにもみえる。
 原論かあ。なるほど、こういう碇の降ろし方もある。

2009.12.06

『「薔薇族」編集長』伊藤文学、幻冬舎アウトロー文庫

  編集長が自分の雑誌を語るだけで、大抵は立派なノンフィクションになる。伝説のホモ雑誌の編集長なら、なおさらだろう。まず、伊藤文学という名前がすごいじゃないか。まあ、ハードゲイの世界はちょっと怖気付いてしまうけど。そんなわけで読んでみる。
 まず、伊藤文学というのはご本名である。文学かぶれの父親が名付けた。1948年に創業した第二書房は、もともと著者の父親が経営し、格調高い歌集を売っていた。しかし、著者の代になるとエロ本専門になる。理由は糊口をしのぐため。これで冒頭の三ページ。もったいぶらない、余韻がない、順を追って説明するだけ。他律的な状況への対応を積み上げてきた、それだけの男がいまや好々爺然としている不思議。しかもゲイ雑誌編集長で、ノンケ(一般の異性愛者)である。
 競合誌創刊への危機感、読者からの電話相談窓口の24時間対応、バーの開店、三島由紀夫や内藤ルネら同性愛者のクリエイターとの交友など、描かれる世界は特殊だが、びっくりするくらい普通に誠実に対応をしてきた著者。なぜなら、糊口をしのぐため。出口なしの循環の中で、やけに濃度が高まる著者のホモ道、振り返れば一本道。

2009.11.25

『柔らかい個人主義の誕生』山崎正和、中公文庫

 80年代に入って早々、70年代を「不確実性の時代」と名づけて整理する。高度成長による「黄金の60年代」論や、学園紛争をはじめとする「叛乱の60年代」論を手早くさばいて次へ行く。その持ち運びの軽さ自体が、著者がいう「消費」の手触りにとても近い。
 消費は、単純な消耗ではなく、快楽主義の代表選手なわけでもない。「充実した時間の消耗」こそを消費と呼んで、生産者ベースでものが決まってきたガチガチの個人主義の時代から、顔のみえる大衆社会を想起し、柔らかい個人主義の萌芽を見出そうとする。
 あれから四半世紀。この議論をどう引き継ぐか。生産、消費といった動きのある状態への名づけ・意義づけは、もうどうでも良くなった。むしろ「所有」といった静止しているようにみえる様態を示す言葉に潜むダイナミズムに引き付けられていたわけである。
 さて、ゼロ年代も、ぼちぼち終わりますがな。

Posted at 06:00 | 中公文庫 | COM(0) | TB(0) |
2009.11.22

『マルコの夢』栗田有起、集英社文庫

 この10年いや20年と、書籍の未来については散々議論されてきた。ジャストシステムの『JUST MOAI』やトランスアート『本とコンピュータ』など、傍観者として議論自体を楽しんできたが、あれからいくとせ。いざ電子書籍という流れはいまだ鈍い。供給側にいわせればジリ貧なまま、需要側からはあんまり変化を見せずに、こんにちの本の世界は縮小均衡で生き残っている。
 アナログの本は、視覚だけでなく、触覚に訴えるところがいい。ここから手触りを抜いたのが電子ブックなら、浸透しないのも当たり前。五感に訴えるものは強い、生き残るのだ。
 それに加え本書では、味覚と嗅覚の動員が要請される。つまり、いいにおいでおいしそうなキノコの話が出てくる。キノコを縦に裂く、シューッという音もあわせると五感制覇だが、問題なのは組み合わせ。いい匂いと引きも切らぬ幻聴。うまそうな味と惑溺、幻惑の光の乱反射。茸採りが菌糸として絡めとられるまでの、なにやら変則的なビルディングス・ストーリー。
Posted at 06:39 | 集英社文庫 | COM(1) | TB(1) |
2009.11.19

『わが小林一三』阪田寛夫、河出文庫

 あの「宝塚」の生みの親・小林一三(いちぞう)を描く本書を順番に読んでいくと、なかなか宝塚を作らないことに苛々する。半分ぐらい読み進めると、小林も40代に入り、やっととっかかるといった調子。
 じゃあそれまでは何をしていたかというと、文学青年として不味い小説を書き、そのうち結婚に失敗。三井銀行のサラリーマンとして働くけれど上司と反りが合わず悶々とする。そのうち、梅田・宝塚間という田んぼだらけの土地を走る箕面電車の監査役になる。なったはいいが、競合他社・阪神電車に怯える。しまいには取引先の北浜銀行の疑獄事件に巻き込まれる。焦点が当たりやすい後半生よりも、不遇な中にあっても個人としての経験を着々と積む小林の姿を明らかにする、大部の伝記。
 著者の阪田がどっぷり浸かった阪急文化についての記述も幕間に顔を出す。阪急の「電車に乗る女の人は、身も魂も美しいという信仰がこちらの胸の中に最初からあって、その象徴が宝塚の生徒なのであった」という小学生のころの著者の没入具合たるや。周辺の地理や文化に不案内な私。自分用に、阪急を西武鉄道に置き換えて読んじゃいけないんだろうな。確認するまでもないか。
 宝塚歌劇が誕生してから130年。小林はもちろん、著者の阪田も、著者の友人であり娘の芸名の名付け親だった作家・庄野潤三も、そしてつい最近、著者の娘で宝塚のトップスターだった大浦みずきも鬼籍に入った。一方で、宝塚歌劇、阪急といった看板が、まさに日本の金看板というべき位置にあり続けていることに、あらためて驚いてしまう。
Posted at 09:36 | 河出文庫 | COM(0) | TB(0) |
2009.11.15

『パーマネント野ばら』西原理恵子、新潮文庫

 まんこ及びちんこのエピソードが頻出する。即物的に乾ききった主人公周辺の性をめぐる話が、このマンガの場合はどうしたことか愛の話にしばしば辿りつかない。
 田舎町のパーマ屋に集う女性たちは、いつもあけすけで、性にも愛にも飢えている。シンナー中毒だった学生時代の思い出、ひどい男による家庭内暴力のこと、旦那を寝取られた話、老いと愛情について、生きていることと人の死について。そこまで語っても、なぜか世界の彼方まで、平々凡々。「パーマネント野ばら」はおんなの笑い声あふれる中、淡々と営業を続ける。
 まんこの話がまんこの話だけで終わってしまうことへの、絶叫したくなるほどの切なさ。同時に、それでも今日を生きていることを仮に希望と見立てて、この店で七色パーマをあてる、どうしてもプロフェッショナルのおんなになれない、おんなたち。
 「けい子ちゃん なんで させ子なのー」「だって私 なんにもない フツーやんか 私からまんことったら 何が残るのー?」
Posted at 07:56 | 新潮文庫 | COM(0) | TB(0) |
2009.11.12

『新宗教』村上重良、岩波現代文庫

 解説担当の島薗進先生がキレまくり。27年前に出た概説書を文庫で再刊しなければならない業界の研究状況への不満も手伝ってか、徹底的に本書の限界について解説七ページ分で示している。新宗教を一覧した本書には、冷戦下のマルクス主義的前提が存在しており「なぜ、新宗教がこれほど人びとを魅了にしたのか」が見えにくいと断じる。確かにこういう本は、記述者の志向・立場の問題が難しいやな。
 霊友会と立正佼成会、創価学会あたりまでしかカバーされていないが、勢力が縮小している如来教から黒住教、天理教、金光教、大本教、ほんみちといった教団の沿革と教義が簡潔にまとめられた本書は入門書としては良いだろう、というか私は何に入門するのだろう。
 もちろん神道系・仏教系などの区別はあれど、教団の消長はラーメン屋の暖簾分けだったり、アパレル業界の兄弟喧嘩に似ている。分派・独立などを過去に経験し、とりあえず現在の勢力図で均衡がとれている状況、というのが大まかに分かる。
 著者はさらに、昭和初期の国家神道が強制される状況に対して、教団がどのように対抗したのか、という軸で教団を測る。たとえば、天皇制国家により宮殿がダイナマイトで破壊されるほどの抵抗を示した大本教の記述は厚く、戦時中に天皇制の傘下に入ってやり過ごした霊友会や生長の家については、思い入れがない書きぶり。
 教団運営のコツは、他宗派でノウハウを学ぶか実業界の方法を援用すること、教団指導者一名以外にカミサマが降りてこないよう注意すること、指導者が死んだ時の継承者を決めておくこと、といったところか。
 ネットで検索しながら読むと、二倍楽しめる。黒住教の「大教殿勤番」(どれだけ偉いのか分からない)が、30代のパパで阪神タイガースファンなのも分かる。分かってどうする。

2009.11.09

『高丘親王航海記』澁澤龍彦、文春文庫

 残された小説が少ないものの傑作だらけなため、言及されつくした感もある著者の小説作品群。その中でも主著と目されるこの奇想小説に関して、文芸評論家の奥野健男は「ブキッシュな厳密な考証に耐えると共に、現代の風刺になっているだけでなく、実におどろくべきことだが」――ここからが重要なのだが「作者の身心の表白にもなっていることだ」と指摘する。
 時は貞観七年、西暦に直しても仕方ないが、867年。天竺へ上ることを夢みた高丘親王は、還暦をとうに過ぎながらも宿願を果たすべく、広州の港を出た。おんなの顔を持つ鳥や、獏肉を乞う姫君など、あまたの椿事に遭遇する一行。
 お供は果敢に道を探るが、親王はどこか他人事然としているか、呆然としている場面が多い。夢の中の天竺に近づいている感覚もない。「なにを求めているのか、なにをさがしているのか、自分でもよく分らない」。同時に、探していたものと出会ったときの既視感をも予期している。「ああ、やっぱりそうだったのか。すべてはこの一言の中に吸収されてしまいそうな予感がした」。それは濃厚な死の予感。1987年に連載終了。同年、著者逝去。

Posted at 06:14 | 文春文庫 | COM(0) | TB(0) |
2009.11.06

『りえちゃんとマーおじさん』南條竹則、ヴィレッジブックス

 真夜中にカレーを作ってみた。ハウス食品製造の渾身の力作であろう固形ルーを使ったのだが、あんまり美味しくなかった。理由は分かっている。固形ルーの量をややケチってしまったことが原因なのだ。ハウス食品を持ち出すまでもない。
 私はこの程度の人間であるから、中華料理を次々に平らげるこの小説の主役・りえちゃんにはかないません。花を模した千紫万紅、鳥のスープと焼き鳥のセットである百鳥朝陽、ゼリー状の膜に包まった各種ゆで卵の盛り合わせ・鳳凰蛋、搭状態になった揚げパンに季節の一品が挟み込まれている宝塔暁風。まだまだ出てくる。どんどん食べるりえちゃん。そして、やさしく太っ腹の料理人、マーおじさんとのおいしい交友の数々。
 中華料理がきちんと描ければなんでもいいや、という著者の目が狂気じみるのは「食べ物黙示録」の章。豚面の妖怪にさらわれて地獄で接待されるりえちゃんに供されるのは、人の目玉が浮いたスープに、生首イモ、亡者なます、亡者ベーコン、血みどろ団子。泣いて拒絶するりえちゃん。なんじゃそりゃ、というかわいいお料理ファンタジー。

2009.11.03

『日本の歴史をよみなおす(全)』網野善彦、ちくま学芸文庫

 大化の改新は存在しなかったかも知れない、といわれれば、何に騙されていたのだろう、釈然としないなあという感じが残る。あったか無かったかはっきりしてくれ、とすら思う。まったく同様に、中世の百姓はやっぱり、水戸黄門の前でははーっと言って、あおい輝彦あたりに肩をポンと叩いてもらわなくちゃ。
 極度の歴史音痴の私に対して、著者は一つ一つ物証を積み上げて迫ってくる。いったん反故にして襖の下張りになっていた文書を、そうっと剥がして読み解いた結果だ、と先生は胸を張ってる。曰く、日本の百姓は農業専業だったわけじゃない、日本は海に囲まれていたからこそ豊かな交易ができたのだ、抑圧された女性像は捏造であり男性並みの自己決定権も持っていた、被差別者は単なる賤視をされていたわけではなくその聖性もひろく社会に共有されていた…。総合すれば、中世の日本像はほとんど別の国になっていくだろう。
 網野の使命感は揺るがない。海や山を経めぐり農業以外で生計を立てて暮らす人たちの歴史は「切り落とされ破棄された世界であり、この世界をもう一度世に出さなくては、日本社会像が非常にゆがんだものになってしまうことは確実」だという。黒々とした大きなプロットをつないでできあがる、大文字の歴史の怪しさよ。
2009.10.31

『太陽の塔』森見登美彦、新潮文庫

 みうらじゅんあたりを頂点として日本の男子諸君の相当部分をカバーするであろう、いわゆるDT系。ソレ系の政治団体を立ち上げて比例代表選に候補を立てれば、サラリーマン新党やスポーツ平和党なみの勢力を確保できることであろう。そのDT思想史の基礎をなすケースブックといってもいい。
 「とどのつまり、ふられた男の子の真冬のさえない独白小説」と文庫の解説者である女性タレントはまとめようとするが、これはいかん。アニメ系、歴史系、アイドル系と、さまざまな業を背負いながら、果敢に恋愛至上主義の象徴であるクリスマス粉砕を目指す、三人のくすんだ学生たちが、冬の学生街・京都の空に散華する。これを美といわずして、何というのか。何といってもいいんだけど。この流れでいくらでもツラツラ抱えられる。モラトリアムの愉悦。
 小さな物語を寄せて、叩いて、技術論だけで正面突破の真っ向勝負。ファンタジーノベル大賞の選考委員でイラつく人間が出るのもよく理解できる。作者の第二作以降も人気がある様子だから、その踏み出しの潔さ加減をこそ、注目したい。

Posted at 05:49 | 新潮文庫 | COM(0) | TB(0) |
2009.10.28

『チル☆』松井雪子、講談社文庫

 山田詠美、杉浦日向子、内田春菊。出発点は同じながらも、作家活動を深めていったマンガ家たちを、もちろん一括りに出来ようはずもない。いずれも異様な経歴で恐ろしい。ただ、彼女らはいずれも「文章に比べて、マンガ描くのはめんどくさい」といいそうな気がする。杉浦あたりは、明確に発言していた記憶すらある。だけど、松井雪子はメディアの差について、もっと曖昧な感じで挑んでるんじゃないか。イラストがやや先導する本作を読みながら、松井のマンガ作品である、田舎の廃屋で死んでいく老婆の皺のひだひだを何度も数える『マヨネーズ姫』のことを何度も思った。
 childを指すかもしれない少女・チルは、漠然とだけれども、全体を理解している。生きること/死ぬことは、その尊厳や重さを抜きにして考えれば、なんてヘンテコで不思議なことなんだろう。生と死の往来の自由を高らかに宣言する、おたまじゃくしのお化けのような「くねり」の存在が、本当はどんな人のそばにもいる。主人公がいずこへかすり抜け駆け出していく結末は、松井雪子しか描けないはずだ。

Posted at 05:30 | 講談社文庫 | COM(0) | TB(0) |
2009.10.25

『夢みるピーターの七つの冒険』イアン・マキューアン、中公文庫

 気乗りのしない朝はユニットバス内でリサイタルを開催したり、酔っ払った夜には石蹴り遊びを遂行する。だけど昼間は、なるべくしかつめらしく席に座っている。座っているけど頭の中では、今朝テレビのワイドショーで見た、トラブルを起こしたタレントの記者会見のことを考えていて「自分が記者にあんなひどい質問を受けたらあのタイミングで泣いてやるのになあ」などとつらつら考えていて、気がつけばパソコンの離席ロックがかかっている。いろいろテクニックを踏まえて、大人は大人なりに夢をみている。まあ、子どもと勝負してもしょうがないか。
 校庭の隅っこで、ピーターはいじめっ子・バリーと対決する。彼の真正面に立って、彼に伝える。「ぼくは、きみが存在してるとさえ信じてないんだ」。ときどき忘れそうだけど、信じることの強さといったら。そして同時に、決定的な何かを夢として忘れることの大切さといったら、そりゃもう。もちろん大人だから、私は分かっとりますがな。

Posted at 05:30 | 中公文庫 | COM(0) | TB(0) |
2009.10.22

『累犯障害者』山本譲司、新潮文庫

 電車の中でぐわああ!と吼える人がいる。変な人だ、怖い、という感情はいまだ無くならないけれど、最近ではそれ以外に、この人は普段どんな生活をしていて、何が気になっているんだろうという思いがきざすこともある。
 日本の受刑者の二割が何らかの知的障害を抱えていて、うち七割が再犯者。こんなに圧倒的な社会的課題は、著者が秘書給与詐取により衆議院議員から獄中に落ちなければ、顕在化することはなかっただろう。障害者が犯罪を犯しやすいのではなく、その生活基盤が脆弱で生きていく場所がないため、生活しやすい場所として刑務所で生きることを選択することが余儀なくされている。一歩間違えると、新たな誤解を生む可能性があるデリケートな問題だから、だれも語ってこなかった。
 ろうあ者暴力団の章もキツい。ろう者が(いわゆる健常者に相当する)聴者と異なる文化を持つことを前提とした裁判の、ひいては社会のありようが理解される日が来るだろうか。
 ふと思う。特別支援という教育業界の用語があるが、彼らが大人になり、社会の中で生活をするには、どれくらいの支援の具体的方策が検討されているだろう。何かこう、モノが大きすぎて弱気になってしまうが、まずは知るところから。著者が関わっている、障害者の自立支援施設にも興味がある。連帯責任があるとして社会から糾弾されるリスクを抱えつつ、知的障害の人間とともに暮らしている社会復帰施設のスタッフの様子も知りたくなった。

Posted at 05:30 | 新潮文庫 | COM(0) | TB(0) |
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