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2009.11.25

『柔らかい個人主義の誕生』山崎正和、中公文庫

 80年代に入って早々、70年代を「不確実性の時代」と名づけて整理する。高度成長による「黄金の60年代」論や、学園紛争をはじめとする「叛乱の60年代」論を手早くさばいて次へ行く。その持ち運びの軽さ自体が、著者がいう「消費」の手触りにとても近い。
 消費は、単純な消耗ではなく、快楽主義の代表選手なわけでもない。「充実した時間の消耗」こそを消費と呼んで、生産者ベースでものが決まってきたガチガチの個人主義の時代から、顔のみえる大衆社会を想起し、柔らかい個人主義の萌芽を見出そうとする。
 あれから四半世紀。この議論をどう引き継ぐか。生産、消費といった動きのある状態への名づけ・意義づけは、もうどうでも良くなった。むしろ「所有」といった静止しているようにみえる様態を示す言葉に潜むダイナミズムに引き付けられていたわけである。
 さて、ゼロ年代も、ぼちぼち終わりますがな。

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Posted at 06:00 | 中公文庫 | COM(0) | TB(0) |
2009.10.25

『夢みるピーターの七つの冒険』イアン・マキューアン、中公文庫

 気乗りのしない朝はユニットバス内でリサイタルを開催したり、酔っ払った夜には石蹴り遊びを遂行する。だけど昼間は、なるべくしかつめらしく席に座っている。座っているけど頭の中では、今朝テレビのワイドショーで見た、トラブルを起こしたタレントの記者会見のことを考えていて「自分が記者にあんなひどい質問を受けたらあのタイミングで泣いてやるのになあ」などとつらつら考えていて、気がつけばパソコンの離席ロックがかかっている。いろいろテクニックを踏まえて、大人は大人なりに夢をみている。まあ、子どもと勝負してもしょうがないか。
 校庭の隅っこで、ピーターはいじめっ子・バリーと対決する。彼の真正面に立って、彼に伝える。「ぼくは、きみが存在してるとさえ信じてないんだ」。ときどき忘れそうだけど、信じることの強さといったら。そして同時に、決定的な何かを夢として忘れることの大切さといったら、そりゃもう。もちろん大人だから、私は分かっとりますがな。

Posted at 05:30 | 中公文庫 | COM(0) | TB(0) |
2009.10.19

『子どもと死について』エリザベス・キューブラー・ロス、中公文庫

 グリーフケアの第一人者による一冊。「子どもの失踪、殺人、自殺」などそのものズバリの章立ての中で、過酷な状況にある子どもとその家族の事例が矢継ぎ早に出てくる。余韻を許さないその放出の仕方は、CBSドキュメントを見ているよう。生きることが多様であるのと同じくらい、死もさまざま。子どもと死を考える分野の開拓は、大きく遅れたのだろう。
 臨死体験や蘇生の研究を目的にしない、という本書。多分にスピリチュアルな展開も混じっているけれど、その辺りを否定していたら成り立たない世界なんだろう。子どもたちの行動の部分は置くとしても、生前、最後に子どもが遺した言葉が詩の形で記録された例も多い。「象徴言語」という言葉で解釈がなされるが、純度の高い純粋芸術になっていると思う。これをよすがにして、子どもたちの生を見直す機会も多い。この本では必ずしも詳述されないが、その後のグリーフワークだって、純粋芸術の形をとるのではないか。
Posted at 01:15 | 中公文庫 | COM(0) | TB(0) |
2006.04.09

『みちのくの人形たち』深沢七郎、中公文庫

 先日逝去した久世光彦なんかは、ある時代をテーマにした作品を書くとき、当時の言葉が自然に出てくるように、古い新聞や雑誌の言葉が染みるまで読み込むのだ、といっていた。
 自分にはわからない言葉を使うある文化圏の存在について。「くれてやる」「こしらえる」「相すいません」といった言葉がやり取りされる昭和な感じ。それも、ポジがサザエさん的なものだとしたら、ネガが必ずどこかにある。たとえば辺見じゅんの『海の娼婦 はしりかね』(角川文庫)だとか、深沢七郎のこの著作だとか。
 生に関するルールを描いた一連の作品集である。生を語ることは、さしあたり、性交や経血、出産の周辺を取り扱うことだけど、おとこはその中核に立ち入れない。いつも観念を通してしか触れられない世界にいる、おとこの哀れ。 フェミニストたちはどう読むのだろう。中山千夏は、この作品を評価していた記憶がある。
Posted at 01:10 | 中公文庫 | COM(0) | TB(0) |
2005.11.08

『蕭々館日録』久世光彦、中公文庫

0002.jpg 大正文壇を舞台にした小説。主人公である小説家の狭苦しい本郷弥生町の住処に蝟集する人びとの様子を五歳の女の子・麗子が追う。
 モデルは「児島」が小島政二郎、「九鬼」が芥川龍之介、「蒲池」は菊池寛。中央公論の新人編集者としてその無知浅学を弄ばれる「雪平」は、若き日の嶋中雄作ではないか。また、やたら衒学的な会話を仕掛け人を煙に巻く「迷々」は平野謙の父、文芸評論家の平野柏蔭か。
 嫉妬や羨望が入り混じる文壇にあって、一つのサンクチュアリとして成立した蕭々館。この中でも全員から畏敬の念を持って迎えられていた九鬼に描写の多くが割かれている。しぜん作家仲間として折り合おうとする仲間は、岡本かの子をはじめとする女性遍歴など九鬼のプライベートな部分に触ろうとしない、触れない。彼の小説や評論作品にでなく、そこにこそ彼の生があるはずなのは知っているが、届かないのだ。
 そこに子どもながらの狡猾さと無邪気さで触っていくのは、児島の娘・麗子である。蕭々館の納戸で眠る九鬼の寝顔に麗子は語る。「今夜、あたしは、あなたの五歳の母でした」と。
 文章書きを生業にした近代人に潜む漆黒に材をとった、こわい話である。
Posted at 15:09 | 中公文庫 | COM(0) | TB(0) |
2005.11.03

『「隔離」という病い』武田徹、中公文庫

0001.jpg ハンセン病の問題に限らないことだが、薬害、あるいは各種戦争問題をはじめとした人災・準人災が整理されると、どうしても悪玉の人間がクローズアップされる。フリップボードの剥離紙をめくるときの悦楽。
 ハンセン病政策の意思決定権を握っていた光田健輔の功罪(特に罪の部分)は藤野豊をはじめとする研究者が緻密な分析をしている。それに対比して、武田の著書で問題にされるのは、その光田の考えを暗黙裡に支持する世論にある。この世論のキーになる人物の探求が面白い。
 つまり、神谷美恵子という人をどう捉えたらいいのだろうか、ということ。彼女はハンセン病の療養所の現実を「踏まえた上で」そこにこそユートピア性を見出していく。厳しい状況下で、自分を掘る。
 でも、掘らなくちゃいけないのか。そうなのか。彼女に必然はある。「キリスト教の終末論的な構図に基づ」き、生きがいを考えているからだ。でも『生きがいについて』っていわれてもさあ。
 武田は、突然吉田健一の文章を引いて、神谷の考え方と別の軸を立てる。これが乱暴で気持ちいい。武田の結論。「未来に人生の意味が成就されることなど考えず、ただ刹那を充実させて生きることは可能なのではないか」。
 だから日常の暮らしが大事だ、という安易なところに落ちたくない。殺という字は、刹の代用字として用いられることもある。
Posted at 10:42 | 中公文庫 | COM(0) | TB(0) |
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