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2009.12.23

『漫画原論』四方田犬彦、ちくま学芸文庫

 仮に目にみえていることが全てだとしても、それを詳述することは簡単ではない。映画批評の方法論は使えるんだろうけれど、やっぱりマンガはマンガであると論を打ち立て、マンガ学の黎明に力を与えた本書。原論というだけあり、コマについて、風船(吹き出し)について、登場人物の顔について、マンガに必要な要素を手早く解説していく。
 もともとPR誌『ちくま』に連載されただけあり、引用を厭わない、というかサービス精神を感じる。過去数十年の日本マンガ界の重鎮(手塚治、杉浦茂)、アイドル(谷岡ヤスジ、つげ義春)、異端者(根本敬あたり)が揃い踏み。当時の脱出口である「新しい世代の漫画家」として、スージー甘金や丸尾末広の名が記されているところが、なんともいえぬ口当たりである。
 1994年に親本が出版されているが、論の基本的な部分は揺らいでいない。とはいえ、現実のマンガのその後はどうだったか。アニメやゲームなど、デジタルメディアとの干渉を経ても、独自の堡塁を守っているようにもみえる。
 原論かあ。なるほど、こういう碇の降ろし方もある。

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2009.11.03

『日本の歴史をよみなおす(全)』網野善彦、ちくま学芸文庫

 大化の改新は存在しなかったかも知れない、といわれれば、何に騙されていたのだろう、釈然としないなあという感じが残る。あったか無かったかはっきりしてくれ、とすら思う。まったく同様に、中世の百姓はやっぱり、水戸黄門の前でははーっと言って、あおい輝彦あたりに肩をポンと叩いてもらわなくちゃ。
 極度の歴史音痴の私に対して、著者は一つ一つ物証を積み上げて迫ってくる。いったん反故にして襖の下張りになっていた文書を、そうっと剥がして読み解いた結果だ、と先生は胸を張ってる。曰く、日本の百姓は農業専業だったわけじゃない、日本は海に囲まれていたからこそ豊かな交易ができたのだ、抑圧された女性像は捏造であり男性並みの自己決定権も持っていた、被差別者は単なる賤視をされていたわけではなくその聖性もひろく社会に共有されていた…。総合すれば、中世の日本像はほとんど別の国になっていくだろう。
 網野の使命感は揺るがない。海や山を経めぐり農業以外で生計を立てて暮らす人たちの歴史は「切り落とされ破棄された世界であり、この世界をもう一度世に出さなくては、日本社会像が非常にゆがんだものになってしまうことは確実」だという。黒々とした大きなプロットをつないでできあがる、大文字の歴史の怪しさよ。
2006.02.25

『日本の幼稚園』上笙一郎 山崎朋子、ちくま学芸文庫

 日本の幼稚園の歴史の通史である。1965年が親本刊行年だから、40年以上前の本なのにまったくもって面白い。とにかく丁寧に書かれている。「幼児教育の歴史」という副題がついていて、通史を厳密に追いかけるよりは、あるべき幼児教育とは何なのかを、現場の実践例に即して考えている。執筆当時にヒアリングを行った人々は、疾うに鬼籍に入っているだろうから、二人の仕事は、記録という意味だけでも大変なもんだ。
 これは著者の(当時の)思想的な状況とも関係があるけれど、大きな状況との連関で、幼稚園の歴史が語られる。つまり、官主導で行われた幼稚園の運営が、本当に「一般大衆」のためになったのか、という点に著者の思いがあらわれる。それぞれの章で、各実践者の取組みを両義的に考えているものの、全般的な流れは、政府に対する要求を続けていかねばならないというトーンでまとめあげられている。
 それはそれとして置いておくとしても、この文脈の中で落ちこぼれる事例も果敢に拾っているのが、たくましい。たとえば「精薄児」や「混血児」、そして、夜の職業を持つ母親の子どもたちに対する幼稚園、保育所の事例。彼らに対する著者の視点は、政府への要求をすっぱり書いているところより、はるかに情緒的で迷いが見られる。これが、とてもいいと思う。この本が世に出された40年間で、本当に変わらなかったのは、こういった陽の当たらない世界で生きる子どもたちをめぐる問題だろう。
2006.01.19

『限界芸術論』鶴見俊輔、ちくま学芸文庫

 まず、黒岩涙香のこと。本人の著作や、三好徹による評伝『まむしの周六』(中公文庫)などに触れてきたけれど、改めて鶴見の評伝は面白かった。大体彼は、翻訳小説家であり、思想家であり、かつジャーナリストであって、それぞればらばらに評価されるわけだけれど、それを全的にとらえるための「一つの踏み石を置きたい」と願って、著者は書いた。鶴見のチャレンジは「日本の大衆芸術状況」に引き寄せて、黒岩涙香を描いた。ひとりの人間として描きました、みたいなカンタンなところで勝負していないのがすごい。なるほど。
 それから、限界芸術のこと。いま切実に思うのは、限界芸術的なものを認知する存在がいてはじめて、限界芸術が存在するのだなあ、ということ。別に、限界芸術なんてどうだっていいじゃないかという気もするが、何ていうのかな、常に大衆芸術や純粋芸術の方向へ引っ張られてアジャストされた表現というのは、安易に生まれやすい。表現の強度の問題ではなくて、その地盤についてこそ考えたい。限界芸術の運動は、宮沢賢治も柳宗悦にしても、しばしば失敗するのは何故なのか。運動がどこかで自己目的化してしまうということか。
 このちくま学芸文庫版は、講談社学術文庫の『限界芸術』で編まれたものと違い生ぐさい著者の姿が立ち現わる。たとえば野坂昭如、五木寛之、井上ひさしの作家論も収載されていて、同時代の文化に著者がどう喰らいついていったかを見るだけでも、ある時代の雰囲気が立ち上がってくる。なんか「大衆な感じ」が存在している。「日本の大衆伝統から、力をくみあげてゆくこと」(特集・戦後廃刊雑誌『思想の科学』、「彷書月刊」2000年12月号より)ってのは、今に照らせば、それはどういうことか。指しあたって、メディア/ツールの部分の問題としては?
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