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2009.11.15

『パーマネント野ばら』西原理恵子、新潮文庫

 まんこ及びちんこのエピソードが頻出する。即物的に乾ききった主人公周辺の性をめぐる話が、このマンガの場合はどうしたことか愛の話にしばしば辿りつかない。
 田舎町のパーマ屋に集う女性たちは、いつもあけすけで、性にも愛にも飢えている。シンナー中毒だった学生時代の思い出、ひどい男による家庭内暴力のこと、旦那を寝取られた話、老いと愛情について、生きていることと人の死について。そこまで語っても、なぜか世界の彼方まで、平々凡々。「パーマネント野ばら」はおんなの笑い声あふれる中、淡々と営業を続ける。
 まんこの話がまんこの話だけで終わってしまうことへの、絶叫したくなるほどの切なさ。同時に、それでも今日を生きていることを仮に希望と見立てて、この店で七色パーマをあてる、どうしてもプロフェッショナルのおんなになれない、おんなたち。
 「けい子ちゃん なんで させ子なのー」「だって私 なんにもない フツーやんか 私からまんことったら 何が残るのー?」
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Posted at 07:56 | 新潮文庫 | COM(0) | TB(0) |
2009.10.31

『太陽の塔』森見登美彦、新潮文庫

 みうらじゅんあたりを頂点として日本の男子諸君の相当部分をカバーするであろう、いわゆるDT系。ソレ系の政治団体を立ち上げて比例代表選に候補を立てれば、サラリーマン新党やスポーツ平和党なみの勢力を確保できることであろう。そのDT思想史の基礎をなすケースブックといってもいい。
 「とどのつまり、ふられた男の子の真冬のさえない独白小説」と文庫の解説者である女性タレントはまとめようとするが、これはいかん。アニメ系、歴史系、アイドル系と、さまざまな業を背負いながら、果敢に恋愛至上主義の象徴であるクリスマス粉砕を目指す、三人のくすんだ学生たちが、冬の学生街・京都の空に散華する。これを美といわずして、何というのか。何といってもいいんだけど。この流れでいくらでもツラツラ抱えられる。モラトリアムの愉悦。
 小さな物語を寄せて、叩いて、技術論だけで正面突破の真っ向勝負。ファンタジーノベル大賞の選考委員でイラつく人間が出るのもよく理解できる。作者の第二作以降も人気がある様子だから、その踏み出しの潔さ加減をこそ、注目したい。

Posted at 05:49 | 新潮文庫 | COM(0) | TB(0) |
2009.10.22

『累犯障害者』山本譲司、新潮文庫

 電車の中でぐわああ!と吼える人がいる。変な人だ、怖い、という感情はいまだ無くならないけれど、最近ではそれ以外に、この人は普段どんな生活をしていて、何が気になっているんだろうという思いがきざすこともある。
 日本の受刑者の二割が何らかの知的障害を抱えていて、うち七割が再犯者。こんなに圧倒的な社会的課題は、著者が秘書給与詐取により衆議院議員から獄中に落ちなければ、顕在化することはなかっただろう。障害者が犯罪を犯しやすいのではなく、その生活基盤が脆弱で生きていく場所がないため、生活しやすい場所として刑務所で生きることを選択することが余儀なくされている。一歩間違えると、新たな誤解を生む可能性があるデリケートな問題だから、だれも語ってこなかった。
 ろうあ者暴力団の章もキツい。ろう者が(いわゆる健常者に相当する)聴者と異なる文化を持つことを前提とした裁判の、ひいては社会のありようが理解される日が来るだろうか。
 ふと思う。特別支援という教育業界の用語があるが、彼らが大人になり、社会の中で生活をするには、どれくらいの支援の具体的方策が検討されているだろう。何かこう、モノが大きすぎて弱気になってしまうが、まずは知るところから。著者が関わっている、障害者の自立支援施設にも興味がある。連帯責任があるとして社会から糾弾されるリスクを抱えつつ、知的障害の人間とともに暮らしている社会復帰施設のスタッフの様子も知りたくなった。

Posted at 05:30 | 新潮文庫 | COM(0) | TB(0) |
2006.01.10

『ドイツ・オーストリア』東山魁夷、新潮文庫

 「古い建物の無い町は、想い出の無い人間と同じである」というのは「或るドイツ人の言葉」だそうだが、その部分に傍線がある。それ以外にも、いちいち文章を噛みしめるぞ、という決意がこめられた筆圧が散見されるページ。実用書に下線を引くのは分かるけど、東山魁夷の小画集に書き込んだ、この本の前の持ち主はどんな人なのだろうか。よっぽど何かが逼迫していたのだろうか。じゃあ、古本屋でこの本を手に取った自分が、逼迫していなかったかどうかは、分からない。
 まだ空けやらぬドイツ・リューベック。その建物に点るあかりからはじまる東山魁夷の作品には、人物がまったく出てこない。ときおり挟まれる作者による文章に沿って、穏やかなドイツ、オーストリアの旅が始まる。
Posted at 19:58 | 新潮文庫 | COM(0) | TB(0) |
2005.12.31

『編集狂時代』松田哲夫、新潮文庫

 異端の編集者といえば「噂の真相」の岡留安則や「写真時代」「パチンコ必勝ガイド」の末井昭が思い浮かぶ。それぞれの著作は過激で、特に末井の『素敵なダイナマイトスキャンダル』(角川文庫、ちくま文庫)は、感涙にむせいだものだ。あと恥ずかしながら、昔読んだ「話の特集」編集長の矢崎泰久の『情況のなかへ』(現代教養文庫)にも影響を受けたと思う。
 それに比べて松田哲夫の経歴は、著書を読む前から良く知っていた。なんだか陽のあたるところを歩んできたんだなという印象があった。著書を読んでその感をますます強くした。えらいのは松田じゃなくて、筑摩書房の寛容さじゃないか。
 それにしても70年代臭さというのは何なのか。ちょうど90年代の初頭、バブル期に想定していた希望のようなものは、70'sグラフィティみたいなものを背負った人がつくっていたわけであり、それに自分自身が気づくのはもうちょっとあと。青島幸男の『青島の意地悪議員日記』(新潮文庫)だとか、なぜあれほど必死に読んでいたのか。あの当時の自分に説教してやりたい。
 いまTBSのユルい情報番組で書評コーナーを持つ松田を見るたび、自分がナンシー関だったら、松田哲夫のヒゲ面を彫り横に「テツ」とキャプションを入れてやりたいところだ。揶揄するポイントはいっぱいあるけれど、トランスアートの「本とコンピュータ」や筑摩書房の「頓知」、いずれも実家にたくさんある。この「実家にはある感」「お世話になりました感」を私は自己批判し、乗り越えなければならない。
 つまらぬことはさておき、一点だけ気になっていること。詩の出版社・七月堂の木村栄治は私が尊敬する人ですが、彼はある随筆の中で、筑摩書房の倒産とその復活に向けたイベントが華々しく行われた裏で、何人の印刷会社が廃業に追い込まれたか、それを記憶している人間はいるのか、と独特の筆致で迫っていたことがある(初出をさがしたが不明。「彷書月刊」か?)。編集の仕事は虚業である。それを忘れるのは、恥ずかしい。
Posted at 01:51 | 新潮文庫 | COM(0) | TB(0) |
2005.12.29

『ヴァージニア』倉橋由美子、新潮文庫

 先日、倉橋由美子の追悼文を金井美恵子が書いていた。案の定微妙な切れ味で、暗に秀作と「肩すかし」を繰り返していた作家だと評している。遺作がサン=テグジュペリの翻訳って何なんだよ、という金井の指摘も、ファンであろうとなかろうと、実はちょうど痒い話なのかもしれない。
 倉橋由美子のマダム性というのは、なんだか奥が深くてちょっとかなわない。たとえばこの作品の表題作では「ボーイフレンドたちに自己の肉体を与え続ける女子学生ヴァージニア」と冷静に適切な距離をとり続ける「わたし」がいる。この「わたし」の周囲が問題だ。
 この「わたし」は、夫もいて、金銭に不満のない暮らしをしていて、夫婦で留学しているという環境である。そこで奇矯なヴァージニアと出会う。出会うというよりも、すれ違う、という感覚の方が近いかもしれない。もちろん「わたし」は、語り手として、取り乱しもせず淡々と事態の推移を見守り、後日談はそれとして処理する。絶対安全地帯にある女性性。
 私生活のごちゃごちゃを書いてもしょうがない。もちろん作者の姿をわたしに投影させるようなダサいことも、作者はしなかった。というのは、本当に本当なのか。そんなところを追求しても仕方ないけど、同氏の逝去の際、他の新聞がベストセラーのタイトルと同時に訃報を伝える中、産経新聞のみが作品名でなく「反リアリズムの作家」として正面切って彼女をおくった、なんかその過剰な姿勢の構成要素を確認してみたくなったわけだ。
Posted at 16:44 | 新潮文庫 | COM(0) | TB(0) |
2005.12.05

『あのころの未来』最相葉月、新潮文庫

 星新一のショートショートをよすがに、現在のバイオテクノロジーの世界をたどっていく。最相葉月という人は、ジャーナリストではなくて、ライターなんだなあということがよく分かる。著者がインターネットをはじめとした、電子メディアを(その思想的な意義も含めて)十分使いこなせないことに、微妙な苛立ちを感じているところが、ちょうど初出の「東京新聞」にぴったり。
 著者のことはともかく。この本で星新一はひとりの預言者として取り扱われている。わざわざケチを付けることもないけれど、彼はとくに預言を遺したわけではなくて、面白い話をたくさん書いて、そして死んでいったんだと思う。
 手塚治虫やドラえもんが、何らかの形でその先進性を再評価されてどうのこうの、というのがしょっぱくてかなわない。子どものころ眠る前に、真鍋博の絵と合わせ、どこかぞっとしながらもページを繰ってしまった星新一の作品集。『祖父・小金井良精の記』や『人民は弱し 官吏は強し』などに、彼の世界の輪郭を確認するための秘密が隠されているのではないか。
Posted at 23:29 | 新潮文庫 | COM(0) | TB(0) |
2005.11.18

『楡家の人びと』上下、北杜夫、新潮文庫

0003.jpg この作品を、たとえば学校の卒業論文のために読む人も世の中にはいるんだろう。手順はなんとなく理解できる。それぞれの出来事を年表にまとめて一覧表を作成し、そこから作品を読み込んでいく。大正と昭和の間に赤い線を引いてみたりして。
 東京・青山の楡脳病院の変遷、つまり勃興期、繁栄期、衰退期を描ききったこの長編小説の第二部第四章の冒頭では、唐突に作者の地の文章が挟み込まれてくる。「一体、歳月とは何なのか? そのなかで愚かに笑い、或いは悩み苦しみ、或いは惰性的に暮らしてゆく人間とは何なのか?」
 歳月をカウントするのにもっとも簡便な方法は年号や元号だけど、この小説を読んでいくと、病院の創業者・楡基一郎と、その養子である二代目院長・楡徹吉に因む独特の名前がつけられた時間軸をもって、連綿たるページに付き従っていく自分がいる。それに伴い、「世相」がおっかぶさり「歴史」が物語の表面をコーティングしていく。
 また、このコーティング感覚の気持ち良さはどうだ。アジア・太平洋戦争がずるずると日常に染み込んでゆくときのちょっと麻痺した感覚は、不謹慎だが本当に楽しい。ありうべき歴史――それは、富国強兵だの、八紘一宇だの――に反発する人間は、登場人物の中にはいない。
 戦争を賛美しているわけではなくて、つまりそういうことなんだ、ということである。現状肯定や現状追認という、現状を現状から切り離して評価するものの見方ではなく、現状のただ中にいるずるずる、ぐずぐず。だから戦争ひとつとっても選択肢などはない。選択肢がたとえ存在したとしても、いずれの選択結果も等価なのだ。
Posted at 22:27 | 新潮文庫 | COM(0) | TB(0) |
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