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2005.12.29

『ヴァージニア』倉橋由美子、新潮文庫

 先日、倉橋由美子の追悼文を金井美恵子が書いていた。案の定微妙な切れ味で、暗に秀作と「肩すかし」を繰り返していた作家だと評している。遺作がサン=テグジュペリの翻訳って何なんだよ、という金井の指摘も、ファンであろうとなかろうと、実はちょうど痒い話なのかもしれない。
 倉橋由美子のマダム性というのは、なんだか奥が深くてちょっとかなわない。たとえばこの作品の表題作では「ボーイフレンドたちに自己の肉体を与え続ける女子学生ヴァージニア」と冷静に適切な距離をとり続ける「わたし」がいる。この「わたし」の周囲が問題だ。
 この「わたし」は、夫もいて、金銭に不満のない暮らしをしていて、夫婦で留学しているという環境である。そこで奇矯なヴァージニアと出会う。出会うというよりも、すれ違う、という感覚の方が近いかもしれない。もちろん「わたし」は、語り手として、取り乱しもせず淡々と事態の推移を見守り、後日談はそれとして処理する。絶対安全地帯にある女性性。
 私生活のごちゃごちゃを書いてもしょうがない。もちろん作者の姿をわたしに投影させるようなダサいことも、作者はしなかった。というのは、本当に本当なのか。そんなところを追求しても仕方ないけど、同氏の逝去の際、他の新聞がベストセラーのタイトルと同時に訃報を伝える中、産経新聞のみが作品名でなく「反リアリズムの作家」として正面切って彼女をおくった、なんかその過剰な姿勢の構成要素を確認してみたくなったわけだ。
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