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2006.01.19

『限界芸術論』鶴見俊輔、ちくま学芸文庫

 まず、黒岩涙香のこと。本人の著作や、三好徹による評伝『まむしの周六』(中公文庫)などに触れてきたけれど、改めて鶴見の評伝は面白かった。大体彼は、翻訳小説家であり、思想家であり、かつジャーナリストであって、それぞればらばらに評価されるわけだけれど、それを全的にとらえるための「一つの踏み石を置きたい」と願って、著者は書いた。鶴見のチャレンジは「日本の大衆芸術状況」に引き寄せて、黒岩涙香を描いた。ひとりの人間として描きました、みたいなカンタンなところで勝負していないのがすごい。なるほど。
 それから、限界芸術のこと。いま切実に思うのは、限界芸術的なものを認知する存在がいてはじめて、限界芸術が存在するのだなあ、ということ。別に、限界芸術なんてどうだっていいじゃないかという気もするが、何ていうのかな、常に大衆芸術や純粋芸術の方向へ引っ張られてアジャストされた表現というのは、安易に生まれやすい。表現の強度の問題ではなくて、その地盤についてこそ考えたい。限界芸術の運動は、宮沢賢治も柳宗悦にしても、しばしば失敗するのは何故なのか。運動がどこかで自己目的化してしまうということか。
 このちくま学芸文庫版は、講談社学術文庫の『限界芸術』で編まれたものと違い生ぐさい著者の姿が立ち現わる。たとえば野坂昭如、五木寛之、井上ひさしの作家論も収載されていて、同時代の文化に著者がどう喰らいついていったかを見るだけでも、ある時代の雰囲気が立ち上がってくる。なんか「大衆な感じ」が存在している。「日本の大衆伝統から、力をくみあげてゆくこと」(特集・戦後廃刊雑誌『思想の科学』、「彷書月刊」2000年12月号より)ってのは、今に照らせば、それはどういうことか。指しあたって、メディア/ツールの部分の問題としては?
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