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2005.11.18

『楡家の人びと』上下、北杜夫、新潮文庫

0003.jpg この作品を、たとえば学校の卒業論文のために読む人も世の中にはいるんだろう。手順はなんとなく理解できる。それぞれの出来事を年表にまとめて一覧表を作成し、そこから作品を読み込んでいく。大正と昭和の間に赤い線を引いてみたりして。
 東京・青山の楡脳病院の変遷、つまり勃興期、繁栄期、衰退期を描ききったこの長編小説の第二部第四章の冒頭では、唐突に作者の地の文章が挟み込まれてくる。「一体、歳月とは何なのか? そのなかで愚かに笑い、或いは悩み苦しみ、或いは惰性的に暮らしてゆく人間とは何なのか?」
 歳月をカウントするのにもっとも簡便な方法は年号や元号だけど、この小説を読んでいくと、病院の創業者・楡基一郎と、その養子である二代目院長・楡徹吉に因む独特の名前がつけられた時間軸をもって、連綿たるページに付き従っていく自分がいる。それに伴い、「世相」がおっかぶさり「歴史」が物語の表面をコーティングしていく。
 また、このコーティング感覚の気持ち良さはどうだ。アジア・太平洋戦争がずるずると日常に染み込んでゆくときのちょっと麻痺した感覚は、不謹慎だが本当に楽しい。ありうべき歴史――それは、富国強兵だの、八紘一宇だの――に反発する人間は、登場人物の中にはいない。
 戦争を賛美しているわけではなくて、つまりそういうことなんだ、ということである。現状肯定や現状追認という、現状を現状から切り離して評価するものの見方ではなく、現状のただ中にいるずるずる、ぐずぐず。だから戦争ひとつとっても選択肢などはない。選択肢がたとえ存在したとしても、いずれの選択結果も等価なのだ。
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