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2009.10.19

『子どもと死について』エリザベス・キューブラー・ロス、中公文庫

 グリーフケアの第一人者による一冊。「子どもの失踪、殺人、自殺」などそのものズバリの章立ての中で、過酷な状況にある子どもとその家族の事例が矢継ぎ早に出てくる。余韻を許さないその放出の仕方は、CBSドキュメントを見ているよう。生きることが多様であるのと同じくらい、死もさまざま。子どもと死を考える分野の開拓は、大きく遅れたのだろう。
 臨死体験や蘇生の研究を目的にしない、という本書。多分にスピリチュアルな展開も混じっているけれど、その辺りを否定していたら成り立たない世界なんだろう。子どもたちの行動の部分は置くとしても、生前、最後に子どもが遺した言葉が詩の形で記録された例も多い。「象徴言語」という言葉で解釈がなされるが、純度の高い純粋芸術になっていると思う。これをよすがにして、子どもたちの生を見直す機会も多い。この本では必ずしも詳述されないが、その後のグリーフワークだって、純粋芸術の形をとるのではないか。
Posted at 01:15 | 中公文庫 | COM(0) | TB(0) |
2009.10.17

『樹液すする、私は虫の女』戸川純、ケイブンシャ文庫

 戸川純様である。どうにも収まりどころが悪く、世の中ではロリータパンクの元祖と目されているらしいが、どんな切り口から見ても常に唐突である。ここでは、彼女の唐突さ、ある表出にいたるアプローチはどのようなものかを検討してみる。彼女が作詞した『好き好き大好き』の冒頭部分は、次のとおり。「常識をはるかに超えてつのる想い/突然変異的に勃発したバラ色の恋/もはや暴力的とも言えるほどの純愛/既に昭和史に刻む勢いのジュ・テーム」。のっけから唐突で、個人的にはたいへんありがたいが、その過程を彼女の個人史から解明できるだろうか。
 たとえば、彼女のデビュー前はどんなだったかをこのエッセイから探ってみよう。彼女は、小学校への通学ルートの途中でぺろっと自動販売機を舐めないと先に進めない癖を持つなど「面倒な」子どもだった。そのまま成長。ディスコに入ると「銀行強盗した気持ち」になり、男の子と海岸を散歩するだけで「婦女暴行をした気持ち」になる。全身で受け止めて生きる。しかし、そこに至る理由や論理が存在しない。
 見かけはタレント本。80年代そのままの戸川純様のキュートなポートレイトも収録。新版も存在するようだ。コンテンツは変動していても、万人を唖然とさせる唐突さはきっと変わらない。

2009.10.01

『出世ミミズ』アーサー・ビナード、集英社文庫

0037.jpg 眼鏡屋に行ったら「前回手前どもでお作りしたのはいつごろでしたか」と店員に聞かれた。「ざっと十年前」と無愛想に答えたら、端末を叩き直して「七年前でございますね。時間も経っていることですし、視力測定を致しましょう」と相成った。赤い◎と緑の◎はどちらが明瞭に見えるかといった、くだくだしい一連の検査の結果、「さほど視力に変化はございません」という結論で、従前と同じ型の眼鏡を買った。新しい眼鏡で読む。
 日本語で書く著者。その日本語への感覚が新鮮だといわれるが、英語だろうが日本語だろうが、根底にあるものは変わらない。反戦派根性を見え隠れさせつつ、歩いてまちを行く。遠くに行きたくなったら、自転車を漕げばいい。摺れていない、柔らかい目で、もう一度見直せるものがあるはずだから。

Posted at 21:09 | 集英社文庫 | COM(0) | TB(0) |
2006.05.05

『家庭の医学』レベッカ・ブラウン、朝日文庫

 知ったふりをして「劇的」という言葉を使うことが多い。まさかこんなことになるとは思わなかったが、仕方ないことでもある。じゃあ「劇的」って何なのさ、といわれても困る。人は生涯において一冊くらい小説になるような体験をするものであるとか何とか、そういう話は良く聞くけど、それが「劇的」なのかどうか、これは良く分からない。なんとなく、そういう「劇的」は、私は好きではない気がする。好みの問題、趣味の問題に落としてゆきたい。面倒だから。
 この本もそうだけれど、少なくとも、劇的と一般的に思われているある一点、一つのポイントじゃなくて、その周辺、それが線だったり面だったり、なんというかその状況を支える何かに、劇的の元が含まれている気がする。
 母が癌の告知を受ける。それを家族が受け入れ、母の闘病生活が開始される。さまざまな治療の甲斐もむなしくなる。骨壷を受け取る。一連の状況なんか書ききれるわけがない。一般的なキーワード──それは「貧血」「耐性」「嘔吐」というような──にひき寄せ、事態を整理し咀嚼してゆく、文字を書き連ねていく過程までもを含めた、劇的なもののありようの提示。訳者の柴田元幸はそれを逆方向から指して「『介護文学』の先駆的な一冊」と評したのだと思う。
Posted at 02:43 | 朝日文庫 | COM(1) | TB(0) |
2006.05.04

『日本一の昆虫屋』志賀夘助、文春文庫PLUS

 著者は志賀昆虫普及社会長。文春ネスコの元版では「わたしの九十三年」が副題だったが、文庫化にあたりそれが「志賀昆虫普及社と歩んで、百一歳」に。ペン習字を最近習い始めた、と夘助老の前書きが付される。
 戦争前から続くただ一軒の、日本の昆虫屋。昆虫への愛情やその生態についての不思議、という切り口はもちろん。ただこの本の半分以上を占めるのは、過酷な運命の告白。貧家で生まれ育ち、片目を失明。校長に騙されて事実上のお手伝いとして住み込むことになり、その後滅茶苦茶な時計屋へ丁稚奉公に出され、昆虫に興味を見出してからも、親方の約束が何度も撤回される。独立し自分で会社を興すまでの記録は、大変しめっぽい話なのに、細部は話が擦り切れてカラッとしたものだ。百まで生きるもんだ。
 ただの昆虫屋じゃなくて、昆虫普及に焦点がある。ミッションに外部的、総合的な視点を常に担保し続ける姿勢と、それを蹴破る勢いや成り行き任せの衝動性がうまくバランスしてる。会社を生き物として使っているわけだ。
Posted at 23:58 | 文春文庫 | COM(0) | TB(0) |
2006.04.09

『みちのくの人形たち』深沢七郎、中公文庫

 先日逝去した久世光彦なんかは、ある時代をテーマにした作品を書くとき、当時の言葉が自然に出てくるように、古い新聞や雑誌の言葉が染みるまで読み込むのだ、といっていた。
 自分にはわからない言葉を使うある文化圏の存在について。「くれてやる」「こしらえる」「相すいません」といった言葉がやり取りされる昭和な感じ。それも、ポジがサザエさん的なものだとしたら、ネガが必ずどこかにある。たとえば辺見じゅんの『海の娼婦 はしりかね』(角川文庫)だとか、深沢七郎のこの著作だとか。
 生に関するルールを描いた一連の作品集である。生を語ることは、さしあたり、性交や経血、出産の周辺を取り扱うことだけど、おとこはその中核に立ち入れない。いつも観念を通してしか触れられない世界にいる、おとこの哀れ。 フェミニストたちはどう読むのだろう。中山千夏は、この作品を評価していた記憶がある。
Posted at 01:10 | 中公文庫 | COM(0) | TB(0) |
2006.03.27

『カスバの男』大竹伸朗、集英社文庫

 モロッコ旅日記である。親本ではどうだったか分からないけど、状況説明や雑感、作品キャプションなど、いくつかの種類の文字種と級数が絡み合った文字記録と、銅版画や色鉛筆などによるデッサンで、11日間の旅程がつづられる。この旅を通じて、彼の手元には200枚のスケッチと1000枚の写真が残った。
 この旅で出会う景色を表現する方法としては「『ひねり』はあまり通用しない気がする」だとか、「美意識の入る余地のない作業の結果は、ときに意図する以上の美の世界を作りだす」といった話はどうでもいい。了解するし、賛成する。とにかくこの人には「正しさ」というガーターがレーンの左右にある。そこに行かないような文章で示された部分は、きわめてまとまりが悪い文章になっている。とりとめがない。このとりとめなさに、モロッコの旅を感じる次第です。
Posted at 02:54 | 集英社文庫 | COM(0) | TB(0) |
2006.03.23

『青春の逆説』織田作之助、旺文社文庫

 ころっと人は死んでしまう。関係者だったりすると大変な事態だけど、まわりはまあ、死んでもうたんやネ、という程度。死を軽く扱うかどうかじゃなくて、あたりまえの諦観。オダサクの作品はそれが気持ちいい。彼の人生もそうだったのかも知れない……とも思うし、ジタバタと生に執着するタイプだった可能性もあるだろう。
 この作品では、神経質で異常に自尊心の高い男が主人公。ねちねち自分の行動を問い返し続けるんだけど、筆が走っていくような、一種異様な疾走感がある。このスピードこそが「青春」で、作品にまとめてパッケージ化したあたりのことを「逆説」っていってるんじゃないか。
 主人公の弱冠二十歳・二流新聞社見習いの青年は、女優くずれの女性と同棲生活を始める。この女性のモデルになったのは、当時人気女優だった志賀暁子だといわれる(『発禁本』城市郎、福武文庫)。当時の芸能・興行界のあれこれを素材にエイヤッとやっつけ、発禁を喰らう、そのスピード。快速電車の中で読んでやった。
Posted at 00:02 | 旺文社文庫 | COM(0) | TB(0) |
2006.03.22

『日々の過ぎ方』堀田善衛、ちくま文庫

 過ごし方ではなく、過ぎ方。いかに交わすかではなく、いかに交わされるか。交わされるものの、ちょっと一言ものを言いたくなってしまう大作家のエッセイ、と書くとなんだかつまらなそうだなあ。スペインと日本の文化のちがいといっても、可視的な部分はわずかなのだろう。これをどう嗅ぎ取るのかがこの種のエッセイの定石。
 「広場の孤独」を書いた作家だけあって、キーンとする孤絶感がベースにあって、その感触自体を論理的に説明していく。地中海沿岸地域の夏はたいへんな熱暑で、サハラ砂漠からのこまかな砂塵とともにやってくる熱気。これをサハラ砂漠が存在感を誇示しているのだ、と書く。なるほどなあ。
 唐突ながら、山田稔の一連の著作を思い出す。道端に落ちている犬の糞がついつい気になってしまう、じめっとしている山田の文章。それがいかに、きわめて個人的な視点で書かれていたかがよく分かる。
Posted at 01:02 | ちくま文庫 | COM(0) | TB(0) |
2006.03.11

『建築家捜し』磯崎新、岩波現代文庫

 自分探し。自己同一性の探求とおおまかに言い換えられるこの言葉は、ここ100年ぐらいの流行語の一つで、たっぷりの手垢てらてら。自分探し大好き大衆の眼前で、さあ猫だましで入るか、うっちゃりで行くか、凌ぐかかわすか、ところがイソザキ先生、あえて敢然と四つに組んだ。さすが横綱。
 本書では、60年代~70年代における彼の建築史が明らかにされる。60年代の篠原有司男や赤瀬川原平との無茶苦茶な交友を経た「建築家とは何か」という問いへの探求が、1970年の「日本万国博覧会お祭り広場諸装置設計」を契機に、どんづまったまま拡大を見せる。結局どんづまっているのか拡大しているのか、この辺が「建築家捜し」そのもの。ただし、その伏線はその2年前、1968年のミラノに遡る。
 1968年5月のミラノ・トリエンナーレに磯崎が、原爆投下直後の広島をもとに未来都市を重ね合わせた作品『電気的迷路』を出した。このとき彼は、出品作家でありながら、産業社会全体への抗議として展覧会場を占拠することを目指すグループに、占拠賛成の署名を行う。「占拠されたのは自分であったが、占拠したかったのも自分自身であった」。ここでダブルバインド状態に陥る自分へと関心が向かうのか、何か得体の知れないとにかく自分ではない何かを考えていくのか。どっちに行っても五分五分だ。だけど、磯崎は後者を選んで転がっていった。
2006.03.05

『豚の戦記』ビオイ=カサレス、集英社文庫

 アルゼンチンに暮らす老人たちが、若者との全面戦争に巻き込まれる、その一週間の記録。というと聞こえはいいが、活劇的要素は多くない。老人狩りの続発でびくついている年寄り連中の繰り言、ぼやき、体調不良の告白など、語られる事情は、狭い領域においてバリエーション豊か。
 主人公ビダルは、初老の男。傍若無人で邪悪な若者の襲撃を何度も逃れきる。そんなとき、人生訓が自然と口をついて出る。ひとつは「人間はみな内面では顔をそむけたくなるほど弱いものでありながら、生きるか死ぬかの苦境に立たされると勇敢だ」。マジックリアリズムと現実の境目が、この辺にありそうだ。彼が述べるふたつめの教訓。「宿命に依怙贔屓はなくてもムラがある」。
Posted at 00:40 | 集英社文庫 | COM(0) | TB(0) |
2006.02.25

『日本の幼稚園』上笙一郎 山崎朋子、ちくま学芸文庫

 日本の幼稚園の歴史の通史である。1965年が親本刊行年だから、40年以上前の本なのにまったくもって面白い。とにかく丁寧に書かれている。「幼児教育の歴史」という副題がついていて、通史を厳密に追いかけるよりは、あるべき幼児教育とは何なのかを、現場の実践例に即して考えている。執筆当時にヒアリングを行った人々は、疾うに鬼籍に入っているだろうから、二人の仕事は、記録という意味だけでも大変なもんだ。
 これは著者の(当時の)思想的な状況とも関係があるけれど、大きな状況との連関で、幼稚園の歴史が語られる。つまり、官主導で行われた幼稚園の運営が、本当に「一般大衆」のためになったのか、という点に著者の思いがあらわれる。それぞれの章で、各実践者の取組みを両義的に考えているものの、全般的な流れは、政府に対する要求を続けていかねばならないというトーンでまとめあげられている。
 それはそれとして置いておくとしても、この文脈の中で落ちこぼれる事例も果敢に拾っているのが、たくましい。たとえば「精薄児」や「混血児」、そして、夜の職業を持つ母親の子どもたちに対する幼稚園、保育所の事例。彼らに対する著者の視点は、政府への要求をすっぱり書いているところより、はるかに情緒的で迷いが見られる。これが、とてもいいと思う。この本が世に出された40年間で、本当に変わらなかったのは、こういった陽の当たらない世界で生きる子どもたちをめぐる問題だろう。
2006.02.17

『銀のほのおの国』神沢利子、福武文庫

 幼い兄妹が異界で旅をする話なのだが、いわゆる子ども向けファンタジーと呼ぶのを躊躇してしまうような展開が待ち受ける。『くまの子ウーフ』(ポプラ社文庫)を書いた作家だと思い読むと、血なまぐさい殺戮シーンに耐えられなくなるかもしれない。だけど、ウーフで彼女が書いたこととの差が、実はそんなにないのも、読み終えると分かる。
 この作品で彼女が描きたかったことを考えるためには「あとがき」が示唆的。神沢が作品を書いた「当時の日本は七〇年安保や学園紛争に揺れ動いた時代でした。私の二人の娘も大学生となり、デモ隊に加わった友人たちが傷ついてわが家にかけこんだこともありました」。
 作品の大部分を占めるトナカイとアオイヌのたたかいの場面では、大きな構図、大文字の歴史が提示される。次に、構図で見取られた集合の輪郭がぎざぎざしていること、つまり裏切り者やサイレント・マジョリティの存在など、構図というものが持つ強度──デタラメさに支えられた強度──の話になる。
 最後に、構図や歴史上の読み取りを拒否しようと抗う存在を書くのだ。これこそが神沢利子だと思う。この作品でいちばん生き生きとしているのは、二本足の子どもであるたかしやゆうこではなく、トナカイやアオイヌの一族でもなく、ひとすじ川のビーバーたち。ビーバーのじいさま曰く「なあ、ちび。だれだって食われるのは切ないものだぞ」だけど「あかんぼをとられても、家族のものが次つぎに悪いやつにさらわれても、じっとがまんしているのだ。きっと口を結んでな」。
Posted at 01:04 | 福武文庫 | COM(0) | TB(0) |
2006.02.06

『日本の呪い』小松和彦、光文社文庫

 小松和彦の作品はとにかく最後まで読み通すことで、全体の靄が晴れる。この作品は、88年にカッパ・サイエンスの一冊として上梓されたものだが、とにかくハードである。「『闇の心性』が生み出す文化とは」が副題。
 小松は現代に続く呪いの原型を、奈良時代の呪禁道(じゅごんどう)、平安時代の陰陽道(おんみょうどう)、中世で大流行した密教と修験道(しゅげんどう)にあるとして、たとえば「丑の時参り」なども、こういった流れの中で解明できるとする。
 呪いの本質は、目に見えないものに対する不安にある。それを可視化するための試みが「呪いのパフォーマンス」であり、ニューテクノロジーの流入に伴って、可視化のバリエーションができていった、という整理になる。
 これは歴史上の話に限定されない。ところどころ「誰かがあなたに密かに呪いをかけ、あなたの身に生じる災いを喜んでいるかもしれない」と、いやあな記述があるが、そういった小松のサービスの問題ではない。支配―被支配のシステムの中で、より大きな呪いの装置が働き、これが国家運営の手段として利用されてきており、現代も事情が変わらないのではないかという指摘である。これまた、いやあな話だ。
 高知県香美郡物部村の現地調査の話も興味深い。人々の民間信仰の中に「呪い」が息づいているのだ。こんなに呪いのこと考えたの、はじめてだ。
Posted at 13:09 | 光文社文庫 | COM(0) | TB(0) |
2006.02.03

『戦略的思考の技術』梶井厚志、中公新書

 実用書の性格を持ったビジネス書であるが、この手の本には「これを恋愛に例えれば」といったような実例が頻出し、著者が読者に対して媚びを売る場面が見られる。こういうのを無味無臭の本として、上昇志向の強い大学生なんかが読んだりして、パワーポイントにレーザーポインタを当ててわあわあいう、下卑た人になってくんだろうな。
 悪口はともかく。「ゲーム理論を実践する」という副題のこの著作は、「ゲーム攻略の理論ではない」のだと著者はいう。コミットメント、ログ・イン、シグナリング、スクリーニング、モラル・ハザードといった用語をもって「現実問題がどのように理解できるか」が書かれている。
 モラル・ハザードについては道徳的危機と訳されるがそうではないということも書かれている。自分なりに捉えれば、仕組みの崩壊状態を含めた悪循環全般のこと、あたりに理解したほうがいいのかもしれない。
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